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「聖徳太子」1400年遠忌をめぐって

 今年から来年にかけて、「聖徳太子」1400年遠忌に関連した催しが盛んになってきました。宗教界をはじめ古代史や美術史の諸分野では、少なくない記念事業や特集記事などが企画されているようです。

 しかし実際には、「聖徳太子」(厩戸皇子?)の没年すら確定した共通認識は得られていないのが実情です。


 太子信仰に関連した文献では壬午年(622年に相当)二月二十二日没ということになっています。これは、法隆寺金堂の釈迦三尊像光背銘あるいは『上宮聖徳法王帝説』などによる説です。光背銘には、「聖徳太子」という文言は一切在りませんが...。

 一方で『日本書紀』では、推古天皇紀・二十九年(『日本書紀』の紀年では、621年に相当)二月五日に厩戸豊聡耳皇子命の死亡記事がありますが、ここにも「聖徳太子」の文言は在りません。

 つまり、「聖徳太子」という呼称自体が、古い文献には存在せず、八世紀以後の後代史料になって初めて出現するのですが、その没年についても、古くから異説があって、古代史界にあっては、決着を見ず、論争が依然として続いている状態なのです。


 大山誠一氏の ”いわゆる聖徳太子と呼ばれる伝承上の人物は虚構であり、実在の厩戸皇子は地味な存在だった” という「聖徳太子虚構説」は、つとに有名ですが、後代に太子信仰として大きな宗教的対象となる各種の文献が全てフィクションを基盤とする虚構の産物であったとするには、釈然としない部分もあります。


 「聖徳太子」の実相を探るには、やはり、当時の仏教の教義や知識層への普及状況、為政者の関わり方を、改めて再検討する必要があるかと思います。その範囲には、当然、三教義疏の根本的な史料批判や、七世紀の東アジアの資料・文献(金石文、史書、寺院関係記録文書、経典、経典注釈書など)の全般的な再検討も含まれるでしょう。


 今までの「聖徳太子」をめぐる論考は、戦前の”国体史観”の影響を大きく受けていて、戦後もその弱点が本質的に克服されていないように感じます。太子信仰や宗教的感情(崇敬の念)を大切にしながらも、遠忌を機に、「聖徳太子」研究を、歴史学として、七世紀の実相を冷静かつ科学的に解明していく端緒にしたいものです。

 私見では、「聖徳太子」に相当する人物は実在していて、かなり大きな影響力を持った存在ではあったが、ヤマト王権とは直接的な姻戚関係や政治的関係を持たなかったのではないか、と考えています。(S.T.) [2021年7月7日記]

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