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「聖徳太子」の実像と虚像

『日本書紀』の推古天皇治世を再検討する必要があり、最近それに関連して「聖徳太子」関連の啓蒙書を幾つか読み直しました。特に印象的だったのが、東野治之氏の『聖徳太子 ほんとうの姿を求めて』(岩波ジュニア新書 2017年刊)と、それと対蹠点にある、合田洋一氏の『聖徳太子の虚像』(創風社出版 2004年刊)です。

東野治之氏は、「聖徳太子」の実像を得る史料として、法隆寺の釈迦三尊像の光背銘を基本とされ、その内容について、最新の研究成果も踏まえて、分かり易く解説されています。ジュニア向けの啓蒙書の水準を超えた解説であると感心しました。

しかし、最も信頼を置かれる仏像および銘文そのものが厩戸皇子に関わるものであるという、大前提となる論証・認定が全くありませんので、間違った前提から出発して、間違った「聖徳太子」像を創出しているのでは?という疑念を拭うことができません。そもそも創建時の法隆寺は全焼しているわけで、当然御本尊の仏像も焼失したはずです。

現存の法隆寺に安置されている仏像は、どこか別の所から搬入されたものですから、それが元々法隆寺ないし厩戸皇子(「聖徳太子」)と直接結び付いたものであるとの確認が最優先されなければならないはずです。そのような前提条件を一切考慮せず、検証作業の無いまま、銘文のあらゆる人物を厩戸皇子関連の人物とするのは、単なる先入観/思い込みを、無意識にしろ、意識的にであるにせよ、無条件に採用しているだけに過ぎません。

「天皇」(最高位の人)でもない人に「法皇」「太后」「王后」といった用語を使うのか?「法興」が「聖徳太子」と密接に関係する年号であると思われるのに、『日本書紀』には全く記載されていない!そもそも薨去の日付が銘文と『紀』では大きく異なる!というような重大な疑問をまともに取り上げないで、「干食」の訓みが「かしわで」で決まりで、「膳(かしわで)」氏に通じる、とかの細かい点だけの考証に終始しています。

また、『法華義疏』が厩戸皇子の真筆本(自筆原稿)であるとの認定には驚きます。殆ど根拠らしい根拠も無くそのように認定するのは、従来の法隆寺関係者の理解を一歩も出ておらず、旧来説の克服どころか、太子信仰にどっぷりと浸った俗説そのものではないでしょうか?三経義疏の内容には、およそ皇族/皇子の立場とは相容れない見解が散見されるのですから、厩戸皇子自身による著作とするには、慎重な記載内容の検討が必要なはずです。

一方で、合田洋一氏は、古田武彦氏の提唱された「九州王朝論」を基盤として、厩戸皇子とは別人の「聖徳太子」像を追っています。通説や東野治之氏の「聖徳太子」像とは全く異なる理解を提示されており、興味の尽きない内容です。両著を読み比べるのも一興かと思います。

立秋を過ぎてから猛暑の日が続いている神戸地方ですが、ふと訪れた束の間の静かなステイホームの時間を、同主題の異種視点の書籍の読み比べで過ごすのも、盛夏の楽しみかも知れません♪ (S.T.)

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